ハンバーグが降ると夏は終わりかな

 

山谷は変わったともちろん僕も言う。それは良い意味でもあるが、以前厳しい現状が続いていることも事実だ。季節かわらず朝の早い街ではあるが、この時期になると会話の内容に越冬の文字が聞こえてくる。年末元旦にかけて宿を見つけていない人にとっては命にかかわる問題である。山谷を歩いていると、越冬や炊き出しの情報交換が聞こえてくる。

「俺今年は越冬できなくて死んでしまうかもしれねえ。お前その時は酒でもかけてくれや」
「なーに言ってんだ。頭ぼけたんでねえのか?○○荘の脇で越冬相談やってるらしいぞ」
「そうか。そこは女も紹介してくれんのか?ははは・・・」
「自分の命よりも女か。おめえは死なねえよ」

冗談まじりの会話の中に、必死に生き抜こうとする意志を感じることもある。なにも東京23区内でと思うかもしれないが、山谷に生きる人の多くは特定のエリアから外に出ることに何らかの抵抗を感じる人も少なくない。それは、自分たちがはじかれた者である、という認識を持っている場合に多い。つまり、外の世界には行けないのだ。

と、山谷の帳場でパソコンをたたいているわけだが、今目の前にヨーグルトやら卵やらが置いてある。うちの宿に20年近く滞在しているIさんがいるのだが、ここの所入退院を繰り返している。二年ほど前からそんな様子で、いつも一週間くらいすると少し元気になって帰ってくる。しかし今回ばかりはどうにも様子が違う。医者の話だと、確実に戻ってこれるとは分からないそうなのだ。

随分と気落ちしてしまい、もう駄目だ、と何度も会うたびに言う。今朝は入院に行く日。

「1km先の病院だって、家族がいりゃいいけど、俺なんて一人だから死んだら誰も泣きゃしねえ。これ、腐っちゃもったいないから食べてくれや」

Iさんは出掛けて行った。戻ってくるのだろうか。
今回ばかりは戻ってこない気もする。

戻ってくる事が良いことなのかは僕には分からないが。

 

2013.12

 

0と1の時代、我々がロボットになる前に

 

デジタルの時代、今まで何万という曖昧な言語で動いていた社会はたった2つの数字に支配されている。その組み合わせが何億通りあろうと本質は0と1なのだ。我々はそうやって合理的になった恩恵によってどれくらい幸せになったのであろうか。2進法は曖昧さを排除し、なんとなくなんていう言葉は許されない。

 

なんだか窮屈だなぁと思う。秋田県知事が集中豪雨の中でついぐびっとやって戻れませんでした、という旨をテレビカメラが回る前でジョッキを持つ仕草をしながら謝罪する姿が問題になっているが、それくらいの余裕で動いて欲しいものだ。ここに彼の問題提起をするのではなく、真の合理性をつくのであれば、知事がそういうことを報道する前に、社会が一致団結しできることはいくらでもある。

 

思えば子供の頃マンション住まいだった私はよく隣人の荷物を預かったりしていた。こんなことは今では考えられないことだろうが、引っ越して挨拶回りが問題になることだってある。

 

自分が写真を撮っていておもうのは、ただただ社会は幸せになったかどうかということに尽きる。

 

0と1の時代、我々がロボットになる前にしておくべきことをもう一度考えるべきなのだ。

 

 

 

初心に帰りたくてもそれは過去に帰るのは不可能だという話

 


先日645Dを持って池尻の辺りを撮っていたら少年に声をかけられた。「何を撮っているのですか?」と。話しを聞くに小学二年生の彼はボクのことを怪しいというのではなく、単純に彼にとって当たり前すぎる光景を写真に収めるボクが大変不思議だったそうだ。

そこで聞いてみる。
「お兄ちゃんはこの街が好きだから撮っているんだよ。よくみるとこの道かっこいいじゃん?」
「ふーん・・・・」

そっけない答えの癖にやたらと興味津々な彼にバックから5Dをだして好きなように撮ってみなというと、シャッターボタンがよくわからいらしくモードダイヤルボタンをおしたりするのでレクチャーしばし。彼自身もなんとなくと言っていたけど満足げだった。

8歳の彼の目はきっといい写真を撮りそうな目をしていた。

初心に帰りたくてもそれは過去に帰るのは不可能だという話。
彼を見ていてそんなことを思った次第なり。